なは女性センター20周年シンポジウム~性の多様性を尊重するまちづくり~【基調講演】

更新日:2019年3月18日

なは女性センター開設20周年記念シンポジウム

日時:2016年11月12日(土曜)
会場:沖縄県県立博物館・美術館講堂
 
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「性の多様性を尊重するまちづくり」

レインボーなは~性の多様性を尊重するまちづくり~

【基調講演】サブリナ・シズエマッケナさん(ハワイ州最高裁判所判事)

・地位によって差別する社会
私が生れ育ったのは東京。父親はアメリカ人、カンザス州の出身で、アメリカインディアンの血をひきます。母親は日本人、北海道長万部出身で、祖母はアイヌの血をひきます。私はプライドを持っているからこの話しをしています。私が9歳のとき、父は横田基地に所属していた頃、心臓発作で亡くなりました。母と子、二人だけとなり、母は働くことになったが、社会が人を地位によって差別し、待遇が異なってしまうことを幼い私は知りました。そして私は良い教育を受け、差別されない人になりたいと思うようになりました。

・法の力を知る
1974年、横田米軍基地内の高校卒業後、私はハワイ大学に進学し、バスケットチームに参加しました。ちょうどそのころ大学で、女子スポーツチームができた初めの年でした。1972年にアメリカ合衆国議会で「Title 9(タイトルナイン)」という法律が可決され、教育機関では性差別を禁じることになりました。そのおかげで私は、奨学金をもらい大学に行くことができ、スポーツもすることができたのです。私はこの法律により、「法律の力」を知りました。そしてロースクールを卒業し、ハワイでもトップの法律事務所に入ることができました。民事訴訟・民事事件を扱い、日本語ができため日本企業の弁護も行ってきました。

・自分に正直に生きるためのカミングアウト
その頃に気づいたのが、自分がレズビアンであることを、自身が認めなければいけないということでした。母が常に言ってきたことが「自分に正直に生きなさい」。判事としてはとても良い言葉です。母のその言葉が、自分の力で生きていける強い人間に育ててくれました。私は自分に正直に生きるため、母にカミングアウトすることにしました。母は受け入れてくれず、私の精神的な苦しみはとても大きなものでしたが、母が強い私に育ててくれたおかげで、そんな母を受け入れることができました。大正生まれで、偏見を持つ時代に生まれた彼女の立場を私は理解し、受け入れることができました。母は「私の何が悪かったの?何を間違えたの?」と何度も言いましたが、私は「ママは何も間違えていない。私をここまで育ててくれて、あなたは素晴らしい母親。誰よりも尊敬している」とサポートし続けました。家族へのカミングアウトは特に苦しい。ですが、自分にも社会にも正直になれることで、これまで背負ってきた荷物を下ろすことができました。

・仕事と出産
法律事務所で5年間働き、その後、日本で専属弁護士として世界中を飛び周りました。バブル崩壊当時、休みなく働いていた私は33歳。自分の子どもが欲しいと思いました。ウソをついてまで男性と結婚し、子どもを産もうとは思わなかった。子どもを産む環境を整えるため、転職することにし、今までの経験を活かし、ハワイに貢献できる仕事をと、1993年、簡易裁判所の判事になりました。また、裁判所で仕事がしたいと思った大きなきっかけは、1991年、ハワイ州でゲイとレズビアンに対し雇用差別を違法とする法律ができたことです。そして法律上、私はレズビアンであっても差別されることは無く仕事に就くことができました。

・同性婚への動き
その2年後、1993年にハワイ州最高裁で、世界で初めて「同性婚を認めないのはハワイ州憲法に反する」とした判例が出ました。アメリカでは各州に憲法があり、各州の最高裁では憲法解釈でアメリカ合衆国憲法より、高いレベルで人権を市民に与えることができるとされています。そしてハワイ州憲法の「性差別になる」という判決に対し、アメリカ合衆国の憲法として、説得性がある理由を政府が立証できれば、それを認めるとされたことから、ハワイ州政府は説得性がある理由について争った。当時のハワイ州政府が理由としてあげたのは、レズビアン同士、ゲイ同士には子どもが産めないことから、異性結婚しか認めないというのが主な理由であった。しかし、子どもを産めない異性や老人でも結婚は可能なため、同性婚を認める判決となった。ハワイ州最高裁の判例は、アメリカ中、世界中で同性婚ができるのか!という大きな衝撃を与えることになりました。

・パートナーと育児
1995年、母親はガンの告知を受け、37歳だった私は孫の顔を母親に見せたいと思い、精子バンクを利用して子どもを産むことを母に告げました。反対されたが、その4か月後に妊娠し、そして更に上級の巡回裁判所に就きました。1996年2月に長男を産み、一人で育てていましたが、その頃、子どもの面倒をよく見てくれる友人が訪ねてくるようになり、パートナーとして一緒に子どもを育てることになりました。パートナーができたことで、さらに二人目を同じ精子で妊娠した時に母は亡くなり、その後、女の子が生まれた。そしてパートナーが同じ精子の三人目の男の子を産みました。三人目が産まれたときに、いずれかが亡くなっても他人に子どもが取られないよう、ハワイ州の法律に基づいて養子にしました。

・私は法律で守られている
子どもを育てながら、刑事事件や民事事件、女性問題やDV事件などの数々の事件を扱ってきました。そして、2009年に家庭裁判所の所長になり、その頃から上級裁判所を何度も立候補し、2011年に最高裁判所判事になることができました。そのときの記者会見の場で、前の席に座っていた家族に対し、この人は誰ですか?と記者に聞かれ、「パートナーと子どもです」と公言することになりました。もちろん、私生活では隠してはいなかったのですが、公的に話したのはその時でした。私は家庭裁判所で様々な事実を知りました。アメリカの調査によると性的マイノリティの自殺未遂は普通の少年の4倍、親にカミングアウトすると3分の1が家から追い出され、アメリカの少年ホームレスの4割は性的マイノリティなんです。そして、アメリカの少年の白人の8割は親にカミングアウトします。ラテン系アメリカ人は7割、黒人系は6割、アジア系は5割。それはなぜか。私も日本人の親に育てられたから分かります。親が性的マイノリティであることを受け入れない恐れがあり、アジア系の子たちはカミングアウトできないと、私はよく理解しています。だから、私はアジア系の裁判官として、アメリカ中、世界中に、私もレズビアンです、とみんなに知ってほしいという思いで記者会見の場で話しました。そんな私でも仕事をし、幸せに暮らしていることを知ってもらいたい。アジア系の若者に希望を与えたい。その友だちと家族に理解してもらいたい。マイノリティでも幸せに暮らせると。みんなと同じ市民であり希望と期待を持った、頑張っている市民なんだと理解してもらいたいからこそ公言しました。なぜ、私がオープンに生きられるのか。それは私が法律家だから。私は法律で守られているとよく理解しているからです。

・市民ができること
みなさんには、那覇のパートナーシップ登録制度の重要性を理解してもらいたいと思います。認められるということは、どれだけ大切なことか。カミングアウトすることがとても難しい日本。みなさんには、那覇市民としてカミングアウトできる環境を作ってもらいたいと思います。教員だったら、例えばアメリカでは、レインボーフラッグを机に置きます。特に何も言う必要は無く、あなたを尊敬、尊重していると。友達同士の場合は、ボーイフレンドいる?ではなく好きな人いる?とか。親であれば「あなたの幸せが一番大事」、「あなたがセクシュアル・マイノリティであっても、幸せな人はいる」と教えてください、サポートしてあげてください。ハワイがLGBT問題のリーダーになれたことは、私にはとても嬉しいことです。これから沖縄の人も那覇で行っていることを日本中の人に知らせてもらいたいと思っています。

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