更新日:2019年3月18日
萬華之塔、三和村、真壁千人壕
萬華之塔
この碑がある真壁村(現在の糸満市)は、沖縄戦最後の激戦地となった。
この地域はどこも似たような状況であり、各部落ごとに慰霊碑が建っている。真壁部落の塔がこの萬華之塔である。戦後、付近に散乱していた遺骨を、日本兵、米兵、地域住民の差別無く集め、1万9000人余の遺骨が納められている。
この萬華之塔の隣に並んで建っているのが砲兵山吹之塔である。野戦重砲第一連隊の勇戦敢闘を讃える文章が並んでいる。住民が建てた素朴な碑と比較して対照的である
三和村(みわそん)
ここ真壁村と摩文仁村、喜屋武村(いずれも当時)は人口の4割が戦死し、単独では村を維持する事が 出来なくなり三村が合併し、三和村を作った。この事実からも、いかにこの地が激戦地であったか がしのばれる。後に三和村は糸満市と合併した。今も真壁にある郵便局に三和の名が残っている。
真壁千人壕
萬華之塔から小道を進んだ所にある壕。多くの避難民や敗残兵が入っていた。軍民雑居の状態で力がある者が 住民や負傷兵を安全な場所から危険な入り口付近へ追い出した。米軍の攻撃を受けたとき入り口にいた負傷兵は 全滅した。
【千人壕での証言】
真壁では千人壕というのがあってそこに入りました。民間人はいなくて、兵隊だけがたくさん入っていました。そしたら、アメリカーに、迫撃砲をうちこまれて、壕のワクがこわされて入り口がふさがれ、出入りができなくなっていましたが、アメリカーのためにここで友達が一人焼き殺されて死にました。それで、私たちは奥にいって、二十日間ぐらいそこで生活していました。壕の奥は水もありました。負傷兵は入り口にいて全滅しましたが、友軍は奥にいました。
それから千人壕からちょっとはなれた壕に移りましたが、そこは民間も友軍もごっちゃになっていました。大きくて何百人も入れるので、ずいぶん大勢の人がいました。友軍よりも民間の人がずっと多かったんですがそこで、大変なことを見ました。
四つか五つになっていたと思いますが、男の子はがおりました。その子は、親がいない、といって泣いていました。子供は入り口の方にいましたが、壕の上には穴が空いていました。そしたら、友軍の兵隊が「この子の泣き声が敵に聞こえる、泣き声が聞こえたら私たちも大変である。この子をどうするか、親はいないか。」と言いました。兵隊の声にだれも返事をする人はいません。そこで兵隊達が中にはいって殺ったんです。少し明るかったんですね。上に穴が空いていたから。連れていって、三角布で首を絞めたんです。民間の人はそれを見て、みんな泣いていました。首を絞めるのは現に見ましたが、怖かったもんですから、最後まで見ることは出来ませんでした。