更新日:2019年3月18日
ガラビ壕
ガラビ壕/八重瀬町新城
ガラビ壕入り口(ガラビガマ)
ヌヌマチガマ入り口
八重瀬町新城にあり、全長500m。東西に貫通し、西側をヌヌマチガマ、東側をガラビガマという。 (ガマとは沖縄の方言で洞窟を意味する。) 現在、西側のヌヌマチガマのみ見学可能である。 この壕は、約1000名の負傷兵を収容する野戦病院であった。この野戦病院の本院は八重瀬町富盛の八重瀬岳にあったが戦線の悪化により本院だけでは収容できなくなり、分院として1945年4月下旬にガラビ壕に設置された。さらに5月下旬には八重瀬町東風平に分院が設置されている。
壕は、上下二重構造になっており上側は砲兵陣地として使われていた。下側の壕の入り口には銃座や 風葬墓なども残り、「風葬骨」なども見ることが出来る。「風葬骨」は白く、土色をした沖縄戦の犠牲者の 遺骨とは区別出来る。壕内では土を少し掘ると、骨のかけらや歯などを見つける事が出来る。
ガラビ壕では、看護要員として県立第二高女の5人の「白梅学徒」が本院から派遣されていた。 当時、病院とはいっても麻酔薬なども切れ、壊疽(えそ、傷口から患部が腐ること)の患者の患部を 麻酔無しで切断する様な治療が行われた。手術の時痛みで暴れる患者を押さえるのも白梅学徒の仕事で あった。
処置された傷病兵達
5月末、米軍に炊煙が発見されるのを防ぐため、ガラビ側に新たにカマドが作られる。しかし5月31日に首里にあった司令部壕も陥落し、米軍も接近してきたため、6月3日にガラビ壕の野戦病院にも解散命令が出された。命令とは独歩患者は原隊に復帰せよ(一人で歩行可能な患者はもといた隊にもどれと言うこと) )と言う物であった。
独歩患者や白梅学徒の人たちが壕から出た後、500名の動けない重傷兵達が残った。彼らに衛生兵の手で青酸カリが配られた。動けない者は自決しなさいと言うことであった。しかし、青酸カリが致死量に足らず、もがき苦しむのを衛生兵達が日本刀や銃剣でさし殺していく。その様子を忘れ物を取りに戻ってきた白梅学徒の一人が目撃している。それを終えた軍曹は、上官に「処置完了」と報告している。