更新日:2019年3月18日
沖縄戦概説
沖縄戦とは?
沖縄戦は1945年の3月下旬から8月までの戦いをいう。
1944年10月10日、沖縄戦の前哨戦 として10.10空襲があった。 この空襲で旧那覇市街の90%が焼失する。旧那覇市内の養蚕試験場にあった司令部も焼け 、首里城の地下に司令部壕が掘られる事になる。その壕を掘ったのが学徒達であった。
米軍の上陸地点からこの首里城の司令部までの首里以北を中部戦線と呼び、司令部が首里陥落を目前に 南部に撤退したため、多くの住民が戦闘に巻き込まれてしまった、首里以南の戦いを南部戦線と呼んでいる。 ひめゆりの悲劇もこの南部地域で起きた。 ひめゆり学徒は何度も映画化され有名なためこの南部地域こそが沖縄戦の主戦場であったと思われている ことが多い。しかし南部戦線は米軍にとっては敗残兵狩りに等しい戦いであり、 米軍の上陸地点から首里城までの中部地域こそが日米が死力を尽くして戦った沖縄戦の主戦場である。
米軍は上陸地点である北谷から首里城までの10キロを進むのに50日間かかっている。沖縄守備軍は この間10万人の内7万4千人(主戦力のほぼ7割)の兵力を失っている。日本兵の死者は1日あたり千人以上にもなる、太平洋戦争もっとも激しい戦いといわれるゆえんである。
主な経過
1944年 | |
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10月10日 | 沖縄各地に空襲、旧那覇市街90%焼失「10・10空襲」と呼ばれる |
12月5日 | 第32軍主力の武部隊、台湾へ移動 |
1945年 | |
3月23日 | 米艦隊、沖縄本島攻撃(沖縄戦開始) |
3月26日 | 米軍慶良間諸島に上陸、31日占領。いわゆる「集団自決」発生 |
4月1日 | 米軍が北谷、読谷に上陸。チビチリガマでいわゆる「集団自決」発生 |
4月4日 | 米軍が沖縄本島を南北に分断 |
4月8日 | 嘉数高地で戦闘開始(中部戦線開始) |
4月19日 | 米軍、この日一日の戦闘で30両中22両の戦車を失う |
4月24日 | 嘉数高地陥落 |
4月26日 | 前田高地戦闘開始 |
5月12日~ 5月18日 | シュガーローフの戦闘 |
5月22日 | 司令部、南部撤退を決定 |
5月25日 | 南風原陸軍病院に南部撤退命令。糸数分院も解散 |
5月27日 | 司令部、南部の摩文仁に撤退 |
5月31日 | 米軍、首里城地下の沖縄守備軍司令部を占領 |
6月3日 | ガラビ壕(第24師団病院分院)に解散命令 |
6月19日 | 司令官牛島中将、指揮を打ち切る(日本軍の組織的抵抗の終結) |
6月23日 | 司令官牛島中将、摩文仁で自決、日本本土で「義勇兵役法」発布 |
6月24日 | 米軍、掃討戦を開始 |
7月2日 | 米軍 沖縄戦終了を宣言 |
8月15日 | 日本、無条件降伏 |
9月7日 | 守備軍の残存部隊と米10軍の間で降伏調印式(沖縄戦の最終的な終結) |
なぜ軍人よりも住民の死者が多いのか
沖縄戦は首里城にある沖縄守備軍の司令部壕が陥落すれば終わるものと、米軍側も、当初は沖縄守備軍の司令官も、沖縄の住民も思っていた。それで首里以南の南部地域には多くの住民が避難していた。ところが本土防衛、国体護持の時間稼ぎのため5月22日に南部撤退が決定される。多くの住民が避難していた所にただ戦争を続けるために軍が逃げてき、壕などを強制的に徴用したため住民は砲弾のなかに追い出される事となった。