萬華之塔、三和村、真壁千人壕


萬華之塔

この碑がある真壁村(現在の糸満市)は、沖縄戦最後の激戦地となった。
 この地域はどこも似たような状況であり、各部落ごとに慰霊碑が建っている。真壁部落の塔がこの 萬華之塔である。戦後、付近に散乱していた遺骨を、日本兵、米兵、地域住民の差別無く集め、 1万9000人余の遺骨が納められている。
 この萬華之塔の隣に並んで建っているのが砲兵山吹之塔である。野戦重砲第一連隊の勇戦敢闘を 讃える文章が並んでいる。住民が建てた素朴な碑と比較して対照的である。

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三和村(みわそん)

  ここ真壁村と摩文仁村、喜屋武村(いずれも当時)は人口の4割が戦死し、単独では村を維持する事が 出来なくなり三村が合併し、三和村を作った。この事実からも、いかにこの地が激戦地であったか がしのばれる。後に三和村は糸満市と合併した。今も真壁にある郵便局に三和の名が残っている。

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真壁千人壕

 萬華之塔から小道を進んだ所にある壕。多くの避難民や敗残兵が入っていた。軍民雑居の状態で力がある者が 住民や負傷兵を安全な場所から危険な入り口付近へ追い出した。米軍の攻撃を受けたとき入り口にいた負傷兵は 全滅した。

真壁千人壕での証言
儀間 トヨ氏の証言
 真壁では千人壕というのがあってそこに入りました。民間人はいなくて、兵隊だけがたくさん入っていました。 そしたら、アメリカーに、迫撃砲をうちこまれて、壕のワクがこわされて入り口がふさがれ、出入りができな くなりましたが、アメリカーのために、ここで友達が一人焼き殺されて死にました。それで、私たちは 奥にいって、二十日間ぐらいそこで生活してました。壕の奥は水もありました。負傷者は入り口にいて 全滅しましたが、友軍は奥にいました。
 それから千人壕からちょっとはなれた壕に移りましたが、そこは民間も友軍もごっちゃになっていました。 大きくて何百人も入れるので、ずいぶん大勢の人がいました。友軍よりも民間の人がずっと多かったん ですがそこで、たいへんな事を見ました。
 四つか五つになっていたと思いますが、男の子がおりました。その子は、親がいない、といって 泣いていました。子供は入り口のほうにいましたが、壕の上には穴が空いていました。そしたら、 友軍の兵隊が、「この子の泣き声が敵に聞こえる、泣き声が聞こえたら私たちも大変である。 この子をどうするか、親はいないか。」と言いました。兵隊の声にだれも返事する人はいません。 そこで、兵隊達が中にはいって、殺ったんです。少し明るかったんですね。上に穴が空いていたから。 連れていって、三角布で首を絞めたんです。民間の人はそれを見て、みんな泣いていました。 首を絞めるのは現に見ましたが、怖かったもんですから、最後まで見ることは出来ませんでした。
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