嘉数高地、普天間基地


嘉数高地


宜野湾市嘉数にある高台、北谷、読谷、普天間基地を望む事が出来る。
 1945年4月1日米軍は読谷、嘉手納、北谷に上陸する。海を埋め尽くす1500もの 艦船、18万の兵員、後方支援部隊を含めると54万人という太平洋戦争最大規模の作戦で あった。米軍は上陸にあたって日本軍の水際での反撃により相当の被害を予測していた。 しかし日本軍は水際作戦を採らず、それまでの上陸に比べれば「ピクニック」の様な 上陸であった。日本軍は沖縄で米軍を釘付けにし本土決戦までの時間をかせぐため、 壕に潜って戦う持久作戦を取った。そのため沖縄の住民は根こそぎ動員され、 辛酸を極めることになった。順調に上陸し進んできた米軍は嘉数高地で最初の日本軍の 猛反撃に遭うことになる。日本軍は嘉数高地にトンネル陣地を構築していた。戦闘は16 日間に及び米軍は1日間に22台の戦車を失うなど激しい戦闘であった。爆雷を抱えて体当た りをし、戦車を止める様な戦法であった。


嘉数高地に残る壕の入り口。壕は米軍が高地に北側から攻めてくることを予想し南向きになっている。 丘陵の尾根のそって中央坑道が掘られ、それから写真の様な枝坑が直角に伸び、むかでの様な構造になっていた。
 沖縄の丘陵地帯は、横穴式の墳墓が在ることが多いが、壕はこのような墳墓から掘られた事が多かった様である。墓室は岩盤がむき出しになり掘りやすかったためである。


北側斜面にあるトーチカ。写真は南側、北側は破壊されており米軍が北側から攻撃してきた事がわかる。

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普天間基地

 米海兵隊専用の航空基地、2800メートルの滑走路を持つ面積480万uの施設である。 海兵隊は敵前強襲上陸を主任務とするいわゆる「なぐり込み」部隊である。普天間基地は米海兵隊にとっては重要な施設である。
 宜野湾市の26%の面積を占め、ちょうど中央に位置するため宜野湾の町は文字どおりドー ナツ状になり、はなはだしく住宅地に隣接している。ヘリは不安定でしかも訓練のため不定 期なコースを飛ぶため周辺の騒音被害ははすさまじい。
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青丘之塔

 嘉数の高地に立つ、韓国人・朝鮮人を祀った碑。青丘とは韓半島・朝鮮半島のことで、昔中国では 半島を中国側から見た様子からそう呼んだ。この碑の様に韓国人・朝鮮人の事にふれた 碑は珍しい。
 彼らは戦場でもっとも弱い立場であり、 もっとも危険にさらされた。



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京都の塔

沖縄戦の慰霊碑は沖縄県をのぞき、各46都道府県建てられている。沖縄戦では軍人よりも民間人の戦死 者が多かったにもかかわらず、住民被害に触れている碑は京都の碑を含め2基しかない。また文面におい ても特徴的で○○柱、英霊、玉砕、御霊などの様な語句が無い。

京都の塔の文面
京都出身者の将兵2530名余りの人が、郷土を想いつつこの地で倒れた、 又、多くの沖縄住民も運命を共にされたことは、まことに哀惜にたえない。 戦後19年を経てこの地で亡くなった人々のご冥福を祈るため京都市民によって建てられました。 再び、戦争の悲しみが繰り返されることの無いよう、併せて沖縄と京都を結ぶ文化と友好の絆が ますます固められる様、この塔に切なる願いを寄せます。

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嘉数の塔

嘉数の住民が建てた碑。京都の塔と同じ敷地内にある。碑文にも在るとおり嘉数部落には日本軍が駐留しており過半数を越える 死亡率となった。

嘉数の塔の文面
この地で、米軍を迎え撃つ日本軍は肉弾攻撃をし玉砕した。その多くが京都出身である、この時、嘉数の人々は京都部隊を援助、輸送等の任務につき、外地に出征した人もあわせ343人の犠牲者を出した。これは区民の過半数である。それは、本土防衛の使命感に殉じた区民の誠意によるものであり、永久に英勲を讃え芳名を塔下に埋蔵する。


軍の有無による死亡率の違い(「歩く・みる・考える沖縄」より)
集落名人口戦死数死亡率一家全滅率日本軍戦闘陣地有無
嘉数695人374人54%33%日本軍いる
前田934人549人59%29%日本軍いる
宜野湾1036人207人20%6%日本軍いない

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